母の話

その他

今回、日本に帰ろうと思い立った理由の一つに、やはり両親が高齢になって来たことがある。
私がもう年金生活者になろうか、という年なのだから当然なんだけれど、いつまで経っても親として生きているような錯覚に陥っている。それか、もう年老いて動けなくなるのなんてはるか先、って思っていたのが、ずっと続いていて、そのはるか先はいつまで経ってもはるか先にしかない、と思っているとか。

数年前に母が転んで、大腿骨骨折で数か月入院を強いられ、その時ちょうど父もインフルエンザに罹り、母も動けない上に誰にも会えない日が続き、父も頼りにしていた母がいないのに熱が出て苦しい時期があったらしい。
どうも、その時期に母が少し認知症の兆しが出てきたらしい。

それで、心配で会ってきた。でも、会話は成り立っているし、確かに何度も同じ質問とか、同じことを繰り返す傾向にはあったけれど、「何か月も天井ばっかりみてたら、そらあボケるわー」って笑っていたので、一緒に笑えたし、ちょっと安心した。

だいたい、母はもともとちょっと天然気味の性格だ(笑)
昔から妹と「おかあさん、ボケてもきっとわからへんわー」って笑っていたくらいだ。
昔から、良くしゃべるけれど、話の筋とは全く関係のない話題を突然降ってきたり、思いついたら絶対で、何度も同じことを言ってきたりしてた。だから慣れてしまってそれ程違和感がない笑。
でも、人の話はめちゃよく聞いてくれるので、私は小さい頃母としゃべるのが楽しくて、台所もしゃべりたいがために手伝ったり、買い物も一緒に行くのた楽しみでお使いを請け負ったりしていた。

私も妹も自己肯定感が強く、小さなことを気にしない、安定した情緒を持って育ってきたのはきっと母のお陰だと思う。
そういえば、今の会社に入社した時、自分の長所は?って聞かれて、突然の質問だったしあんまりその質問を想定していなかったので、ちょっと焦って「Emotional stability」って答えたのを覚えている(笑)情緒安定。それしかなかったんかい!って今思い出しても突っ込みたくなる。

母は料理が上手くて、夕飯には小皿を何皿も作っていた。細かな作業を厭わずやっていたので、お料理ってそういう、面倒くさがらない工程に差がでるんだな、って思う。こまめに灰汁を取ったり、隠し包丁をいれたり、下茹でをしたり、そういうことだ。全体に出汁の効いた薄味の料理だったと思う。ホワイトソースやデミグラスソースと言った、当時はハイカラ、って言われていた料理も苦なく作っていた。そうやって、何でも作ってしまうので、私たち娘たちは、かなり長い間出来合いのお惣菜とか、インスタントラーメンを食べたことが無かった。これも後になって知る事実だけれど。
あと、我が家は必ず夕ご飯は家族一緒だった。これって我が家では普通の事だったんだけれど、世間へ出て初めて、どこの家もそうではない、ということを学んだ笑。
もし外食するとすると、何かの機会に家族一緒に外食で、よく世間のお父さんがよく言っている、付き合いで飲みに行く、とか言う事はほとんどなかった。365日中多分360日はおうちで家族全員で夕食を食べてた。
みんな母の料理が大好きだった。

妹がこの前会った時に言ってたけれど、随分大きくなって、友達と「どん兵衛」形式のカップ麺を食べる機会があって、彼女はカップヌードル以来カップ麺を知らなかったので、その記憶でお湯を注いて3分待って蓋をあけたら、中で顆粒スープを薬味の袋がプカプカ浮いてて、みんなに笑われた、「いつの間に、顆粒スープと薬味が別袋になってたん?知らんやん!笑」って言ってたけれど(笑)、本当、わかるわー。

うちの一家はそういうちょっと世間知らずの所がある。

私も、すごい古い話をちょっと思い出した。
学校の家庭科の時間に調理実習があって、いろんなものを作って食べれる楽しい時間なんだけれど、その時、ご飯を炊くのに炊飯器が置いてあって、当番の子がスイッチを入れてご飯を炊く。
私の家では、ずっと母は釜でご飯を炊いていたので、お鍋でご飯を炊く手順は完璧に知っていたんだけれど、炊飯器を見たことが無かった。(これはかなり珍しかったと思う)

当時はみんな炊飯器だったので、みんな何の疑問もなく使っていたので、「あっ、炊飯器のスイッチ入れといてくれる?」って言われて、戸惑った。
どのスイッチをどのタイミングでどうやって押したらいいのか全然わからなかった。
「ここで合ってる?」って聞いて、「そこは保温やん」って友達に呆れられた。

母が毎日美味しいご飯を作ってくれていたことの弊害がもう一つあった。
母のご飯が好きすぎて、小学校の給食がまずくて食べられなかった。
でも小学校は給食を全部食べないと帰らせてもらえない。だから、いつも給食は一番最後まで残されていた。
そう思うと当時は先生も、そんな給食をノロノロ食べている私にずっと付き合って待ってくれてたなあ。一度両親が迎えに来てくれた時にまだ給食を食べていて、びっくりして、いつもこんなんなの?
先生「はい、いつもこうです。」笑

きっと小学校とかでは、変わった子供だったと思うんだけれど、前にに書いた様に自己肯定感が強いし、情緒安定という特技(笑)で、本人はいたって幸せな学校時代を送った。

中学、高校と進学していくにつれて、勉強の楽しさを覚えた。
その頃の親は、子供はほぼ放っとらかし状態で、みんな自分の事で忙しそうだった。
私たち娘も放っとらかされてたけれど、勝手に本を読んだり、ちょっとハマった勉強をしたり、好き勝手な事をしていた。
高校進学の時に、進学指導で学校に呼ばれた母。
「娘さん、優秀ですね。トップクラスですよ」と言われて、びっくりしたらしい。
私の成績には全く無頓着だったからだ。「はぁ、そうなんですかぁ?」と拍子抜けた答えをした母に先生の方がびっくりしたらしい。その頃はどのお母さんも教育熱心で、試験の点数に一喜一憂しているお母さんが多い中、全然気にしていない母は、先生にとっても新鮮だっただろう。

その時の記憶がよっぽど印象に残ったらしく、50年近くたった今でも、「いやあ、びっくりしたわー。先生に”お母さん、しっかりしてくださいよ”って言われたわ。笑」ってずっと言っている。
この前日本へ行った時もまだその話ばっかりしてた。もう昔々の話やん!気恥ずかしいわー。

そんな天然な母だけれど、若い頃田舎で洋裁を教えて生計をたててたくらい洋裁のプロだ。
小さい頃の洋服はほぼ母が縫ってくれていた。
でも中学くらいになると、他の子供たちみたいにGパンとTシャツがいい、って文句を言ってたのを覚えている。今考えると贅沢な文句や。手作りの服がどれほど高級か!!

その母が父と結婚した時、祖母が呉服屋さんをやっていたので、そのまま器用に和裁をこなすようになり、祖母を手伝っていた。そう、我が家は祖母をいれた5人家族だった。
ちょうど、オーダーメイドの服がもう下火になりつつあって、洋服の注文もそれほど来なくなっていたので、和裁の合間に洋服を縫うって言うリズムで、毎日の様に針仕事をしていた。
家にはいつもたくさんの糸やはぎれや、いろんな色と形のボタンがあって、子供の頃はそれをおもちゃに遊んでいたなあ。

そんな母が要介護のレベルがあがり、ちょっとずつ認知症が進んでいるようだ。
これで、いろんなことがわからなくなっていくのかも?って想像するとちょっと怖いし、ちょっと悲しい。
このまま穏やかに時が過ぎていって、楽しい思い出だけを覚えていて、ステキな時間を過ごしてほしい。

私も妹も母に育てられて良かったって思ってる。

おしゃべりも好きだし、笑う事も好きだし、ちょっとした発見もびっくりするし、自己肯定感と、情緒安定という特技(笑)も私の娘たちにも受けつでいるような気がする。

何となく、お母さんの事を書いておきたくなった。

お母さん、ありがとう!

 

 

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